2016年1月13日水曜日

いじめられっ子からの視点。

最近、またいじめ自殺報道とかあるせいか、つらつら考えてみました。

これは、元いじめられっ子からの視点です。

正直、自分がいじめられてたのは中学2年の時期が中心ですが多分小学校6年とかも。
あと、実は最近気付きましたが社会人になってからもありました。

で、中学生の時の記憶が殆どないんですよ。いじめられてたのは覚えてても、こうして生きているから楽しかった記憶もあったはずなのに、最近まですっかり自分の中では忘れたこと、なかったことにされてたんですよね。

でも、唐突に思い出しかけてきたので書いてみます。あくまで私個人の体験と感情なので、他の人が読んでも身にならないと思いますがそれでも。
暗い上に長いので、それでも読みたい方のみどうぞ。










小学校6年の夏休みに東京の下町から千葉の新興住宅地(当時)に越してきたけれど、子供心に驚いたのは、なんというか、あまり使いたくないけど所謂、「民度」の低さ。

地元の子供達もですが、何より教師がヤンキーというか、品がない。子供目線と言えば聞こえは良いけれど、子供におもねるだけで教師らしくなかったなと感じました。

担任もですが、特に酷かったのが家庭科で、元から家庭科自体は前の学校でも苦手だったし、成績も良くないのですが、
・女の子は教わらなくても家事(特に料理)ができて当たり前
・教わらなくてもできる
・なので適当にやって大丈夫
という方針で放置。

調理実習などは放置してると見せかけてフォローする訳でもなく、編み物か何かやってて結局、試食の時だけかな?何かアクションあったの。

で、自分も料理嫌いなので出来る子たちがやってくれたので、全部お任せして遊んでましたね。
転校前の学校では出来ない子を中心に教師がしっかり教えてくれたのですが。
自分は忘れました。。。

この自分の態度も良くなかったんだろうけど、後片付けはやってたからなぁ。
ていうか、出来る子たちが邪魔者扱いしてましたしね。

今でこそ、その気持ち分かるけれど、こういう積み重ねで仲良くできなかったし(要はとろい、これは母親からも言われる)、学内のルールも教師は教えず子供達の情報連携に任されてたから、修学旅行の集合場所を教えてくれませんでした。

これ、当時は自分が聞き忘れてたかと思ってたけど、後から実はわざと教えなかったと当事者から聞かされました。

「だってあんた、あん時はトロいしムカつくしなんだかイラついたから」

って笑って言われたのでその時自分もへー、そーなんだーと笑って流してましたが。
ただ、あ、やはり自分が悪かったんだとその時は思いました。

中学生になり、学校も人数多くて0からのスタートだから気分一新!の筈が、地元からの子からイジメは継続したし、またそれに便乗して新しいメンバーからのイジメが続きました。
具体的には書きませんがより陰湿、かつ暴力も加わってきたけど教師もまたイジメの対象になったり、鬱から暴力傾向になって勘違いした金八先生みたいになってたりで。
他の教師も困ってはいたけど積極的に動かなかった。

教育テレビの中学生日記なんてあれよりもっと酷い体験してたと自分で思います。幸い、合わなかったのは性的被害だけで。もしかしたら他の子は巻き込まれてたかもしれない。
それ位荒れてた学校だった。

で、いじめられてたのに周りに全く知らせなかったので親も気付かなかった。

これ、どうしてだろうと自分でも不思議だったのですが、いじめの被害者ってそれを言えないしまず動けない。周りにもイジメられてた子もいたし、いじめられっ子同士一時期連携したりいじめグループに分断されたり。

自殺も考えました。
学校の裏の林でで首を吊ろうかとか、屋上から飛び降りるか。
絶対に遺書を書いて、いじめてきた人間の名前全部書いた上でテレビ局か新聞社にも送ってやる!と。
とにかくなるべく当事者と学校に迷惑かけてやろう、と思い込んでました。

後から考えると、そんな馬鹿な考えが出来たのは、それはまだ余裕があったから。
自殺する時のシチュエーション妄想して気晴らし出来たから。

かつ、いじめられてた事実は話さなかったからそれを知らない昔の友達が普通に付き合ってくれて気晴らしさせてくれた。何かは気付いていたんだと思うけどあえて追求せず。

でもそれでも。
死にたかった。
というより、終わらせたかった。

自殺の妄想しても、まず学校に迷惑はかけてやろうと思ってても親、家族に迷惑かけたくない。
それがどんどん積もっていくんですね。

気付いたら近所の踏切前にいるんですよ。

警告音で我に返ったことが何度か。
あと、近所をうろついてた恐らく知的障害者の人から何か叫ばれてとか。

死ぬとか終わらせようとか考えても、人間は自己防衛本能があるのでそこまで行かないはずが、恐らくそれが壊れたのかもしれない。
死ぬときは凄く辛くて痛いだろう、と思って躊躇したことも何度かあったけど、もうこの段階は自分でも何とも出来ない。

正直、自分が生きているのは「運」だと思います。

きっかけは別のクラスの友人でした。
私がいじめられていることを知っていて、その子が親に伝えてくれた。先生というより学校が当てにならないと知っていたそうです。

幸い、その子の親はいわゆる旧家と言うもので、教育委員会にも繋がっているのでそこから働きかけててくれたのですね。
別方面でこの学校が崩壊しかけていることは把握していた(教師が何人も退職していた)ようで、教育委員会から動いていたようです。

ようです、というのは当時自分が子供であったし、何より当時の記憶が曖昧であったこと、親から伝聞で。

ある程度めどが付いたところで,その子の親が私の親に漸く言ってくれたので。
母は非常に驚いていたようです。まさか自分の子供がそんなことになるとは気付かなかったそうで。

で、色々聴かれたり暫く学校休んでいいとも言われたりしましたが、私は意地を張って
学校に行くと言い張っていたようです。これも実は覚えていない。

学校の全体てこ入れはあったけれど、私に対するいじめはなくなったわけではなく、いじめっ子の親も何のアクションもなく。

とにかく学校に行かなければ!と、思っていたようです。
が。

鬱の方は回復期に入ったかもしれないけれど、身体がダメでした。
原因不明の腹痛に悩まされ、地元の病院に行ったけど担当した医者に原因は分からず、「仮病でしょう」と断言され、別の病院へいったら腎盂炎。

何日か休みになっても、なんとか学校へ行こうとはしていたようです。
今思えば、それ以外考えられなかったのかと。
思考が凝り固まっていたのではないか。。。。

そしたら中学三年の秋からなんだかんだと盛り上がり、なぜかいじめもなくなり、受験勉強人並みにしてそれなりの高校に入ったら、楽しい高校三年間生活が送れました。

偏差値って大事ーーー!!
と、つくづく実感。

けっして、飛び抜けて成績が良かったわけでもないけど(国語だけは全国クラス)、それが目立ってしまってたのですね。
同じような偏差値が並んだ高校ではそういうことがなかった。
気付かないだけかもしれませんでしたが、似たような趣味の友人も出来、みんな部活や勉強や趣味に邁進していたので、
要は他人に構うほど欲求不満ではなかったんですよね。

……本当に幸運だったと思われます。知らない間に周りが守ってくれていたこと、今までいじめの記憶を封印していたので、このことも忘れていた。
改めて感謝です。

結論。

いじめられている本人がなんと言おうと、まず周りが動き、守ってあげてください。
本人は動けません。
欧米だと、いじめが発覚したらいじめた張本人を転校させる、ということもあるようですが、まず本人をその環境から切り離すしかないと思います。

本人が言う「大丈夫」は決して大丈夫ではありません。
引きこもっても何でも,とりあえず本人が息できる環境を作ってあげてください。

私はそれがあったから、生きていられました。
とりあえず、それだけです。








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